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1948年の誕生まで Born in 1948

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matusaka.jpg松阪青渓わたしの母親(富枝)は松阪青渓(祖父本名:寅之助)の末娘として阪神間甲子園で生まれた。

祖父の松阪青渓は三重県の尋常小学校卒にもかかわらず、朝日新聞美術記者、高島屋美術部キューレーターを勤めたあと、船場に茶道具店を開き、谷崎潤一郎、熊谷守一、薬師寺管主だった橋本凝胤らと親交のある文人であった。

『上方趣味茶の大徳寺』『谷崎潤一郎氏と猫』『青厳寺拾要集』など多くを執筆している。
富枝は理化学研究所の設立に関わった化学者桜井錠二の研究室で、写真化学などの助手をしながら、科学的化粧品の研究をしていた。

その様子を富枝は昭和12年4月号新女苑雑誌特集師弟の手紙に寄稿している。



八木康吉と母富枝 見合い結婚。

父親(康吉)は2代目質屋の長男として神戸兵庫に生まれた。

康吉の父(祖父:栄吉)は日本画家竹内栖鳳の画塾竹杖会で日本画を学ぶが、曾祖父(力蔵)の猛反対で画業断念した。その夢を一心に託された康吉は東京芸大洋画科に進むことになった。


oneyear.jpgマリヨ1歳babymariyo1.jpg弓弦羽神社境内にて生後10ヶ月



1944年兄(長男:康之)が生まれたあと、父は第二次大戦終戦直前に徴兵された。
戦争で曾祖父から受け継いだ資産を失った両親はそれぞれ教師となった。
終戦間際に母方祖父、祖母、父方祖父も亡くなった。

1948年 阪神間文化地域と称される神戸市東灘区の御影郡家宮浦で二人兄妹の長女として生まれた。

1949年(1才)一才の誕生日直前に肺炎を患う。


1951年 3才のマリヨちゃん入選

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1951年(3才)      
 『三才のマリヨちゃん入選』見出し朝日新聞記事
昭和26年11月30日付に記載。クレヨン画「おかあちゃん」が
具体派を起こした吉原治良が始めた第4回芦屋児童美術展に入選した


mariyo3.jpg三才のマリヨmariyo3-.jpgdadbrother.jpg父康吉、兄康之、青い目金髪のアメリカ人形を抱くマリヨ



tomie.jpg母富枝、兄康之、アメリカ人形の乳母車とマリヨ働く母がわたしを預けた伯母の家にあった大きな松の下で、剥がれたいろいろな形の松の樹皮に興味をもち、独り遊びの心模様が残っている。三才のころから芦屋でモダンバレエを習い、ダンスのポーズに込めた心模様をよく覚えている。



germanw.jpg近所の洋館に住むドイツ人に抱かれるマリヨmariyoshougaku.jpg




pianomariyo.jpg1958年(10才)ピアノ演奏発表会。
1954年(6才)
記憶が鮮明に残る幼少期から父の家庭内暴力は家庭に暗い影をおとしていた。

1957年(9才)
わたしは小柄だったので小学校高学年には、その芦屋浜の水練学校に通い、遠泳5kmもパスし上級試験まで合格するまでになった。

1958年(10才)
環境は与えられるものではなく、幸せは自ら作り出していくものとおぼろげに感じていた。


mariyochugaku.jpg兄康之中学入学式 母、マリヨ記念写真

1961年(13才)芦屋市立山手中学校に入学
いつもながら家は空っぽだった。わたしは誰もいない居間の大きな鏡の前で、白鳥の踊りの真似をすることが多かった。自分流に踊る瀕死の白鳥に夢中になっていた。身体の内部から流れるように踊るのが好きだった。

1964年(16才)兵庫県立神戸高等学校に入学。自由と規律の精神をうたうイギリスのパブリックスクールのような校風であった。日本経済成長めざましくなるにつれ、神戸市は山を削り都市開発がすすみ、山がどんどん住宅で覆われていった。

1966年(18才)高校3年春、わたしはボボワールの第二の性に影響されたことや母の姿を見て、女性の自立をめざし、生き甲斐をもって一生仕事できる職業をもとめていた。無から有を生み出す芸術を志ざし、経済的自立のためにデザインの道に進むことを決意した。

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LinkIcon京都市立芸術大学デザイン科入学色彩構成試験の習作1966年

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1967年(19才) 既成概念を破る前衛インテリアに挑む

1967年(19才) 
京都市立美術大学デザイン科入学
光に興味を持ち、ハニカムペーパーによる灯りの習作をつくる。
色彩感覚のユニークな豊かさを見いだされ、テキスタイルデザイン専攻を薦められたが、苦手だった立体造形の世界でインテリアデザインを専攻することにした。生家の御影から住吉川を隔てた東にある岡本に母が経営する学生賃貸マンションと併用住宅に母と移転。兄結婚。両親別居。

Arthani.jpgハニカムペーパーによる灯りの習作Midasiteiseibun.jpgハーフミラーによるフロアースタンド


1967(19才)〜1968年(20才)
ハーフミラーによるフロアースタンド四季によって模様が変えられ、サイドテーブルとして利用できる照明器具を発表。新しいすまいづくり全書 主婦の友社出版に記載される。

1968年(20才)
日本社会は高度経済成長期であり、画一合理化の波が勢いを増し、そのスピードに息苦しさを感じていた。

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喫茶店に再生紙パイプを利用した椅子、テーブルを制作
森林資源の保護という観点を考えた再生紙管を構造体として利用する斬新なアイディアであった。山林を伐採されることへの抵抗でもあった。
4枚板の椅子」自由自在に使える椅子をデザイン
既成概念を破る前衛インテリアに挑み始めた。
それはアートファニチュアのはじまりだった。



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1969年(21才)
規格統一されたプレハブ住宅やコンクリートビルの乱立に抵抗し、
LinkIcon抱擁の壁と床」柔らかい壁と柔らかい床を発表した。

八木マリヨの<住−柔ー自由>空間への提示より
『わたしは床が平らである必然性を考えたことがないわけではない。しかし、もし、床がわたしの夢を無限に広げてくれるのなら、わたしにとって不便は不自由と同義語ではない。』 

SD雑誌(人間環境の探求)19709「新しい空間の認識に向かって」に記載される。


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1970年(22才)光と影、見えない祠(ほこら)

_-Maman-of-Light-with-mariy.jpg0016.jpg1969年神戸の夜景と「光のママン」


1970年(22才)
京都市立芸術大学環境デザイン科卒業
人類の進歩と調和をテーマに世界万博EXPOが大阪で開かれた。

経済至上主義を走る高度成長大波の日本社会。
人間が希求する環境や本来の豊かさとは何なのか。
あの10才ごろの想いがイメージとなり明確になって表現が浮かんだ。

「環境は与えられるものではなく、創り出してゆくものである。
私は私の知らぬ間に生まれてきたのだけれど、一度は光輝く胎内でわたしの生を問い直してみたいと考えたのです。」

1968年〜1970年に発表作品がSD雑誌(人間環境の探求)
19709「新しい空間の認識に向かって」に記載される。


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体制批判社会運動、学生運動が激化し大学授業もないころ、卒業制作として
1969年11月〜1970年5月まで「LinkIcon光のママン」を制作。

外的環境と内的環境を穏やかな光でしきり、わたしをすっぽり包み込む空間が欲しいと願った。眼に見える形より、光と影、なにか見えない祠(ほこら、洞窟)の空っぽを創りたかった。卒業後までかかり完成した「光のママン」作品のなかに入ると、作品によって生み出された空気がわたしを包んだ。

わたしは生まれる元にもどったかのように、神戸の夜景も、視るものみな新鮮な驚きに変わった。作品の形というより、作品自体が産み出す“空気”が見えない空間を生み出したのだ。神秘性ある空間と呼ぶかもしれない。

光のママン制作後、純粋に一途に自ら創り生きる環境をもとめだした頃、
八木マリヨイメージエンバイロンメント研究室をつくり、建築と美術の対話を創る空間造形の仕事を始めた。


1972年(24才)衝撃的な縄との出会い

1972年(24才)
都会の喧噪の街には心の散歩ができる場所がなかった。着飾った街の中、なにかむなしく虚ろな心に支配されるようになった。あの衝撃は肌寒い早春だった。なんの目的もなく京都に向かっていた。何気なく見知らぬ小さな仏具屋にあったガラスケースに、押しこめられ古ぼけた汚い太い麻縄を見たとたん、稲妻が走ったように全身の血が駆け巡り熱く震えた。何の変哲もないただの古縄にそれほどの衝撃をなぜ受けたのか。

その衝撃のあと、あの麻縄をつくる職人麻縄師山川正次を京都伏見の工房に訪ねた。

asanawa.jpg伝統麻縄職人山川正次とマリヨ1972年mariyoyamakawa.jpg


一本ずつ麻の緒をラセン状に巻き込み縒りにかけ、一挙に縄になってゆく様の美しさにわたしは感動した。千年を越える伝統の神社仏閣用の神事に使う縄を製造していた山川正次に、世界にない前衛芸術作品に仕立てる術の挑戦をもちかけた。初めは相手にされなかったが、通ううちに心打ち解け、わたしが要求する新しい技にも、伝統職人としての意地で拒否せず挑み、わたしたちは次々と世界初出の太い縄の作品を産み出すことができた。



現代社会から消えゆきそうな伝統職人技と芸術家のコラボレーションの始まりだった。 

0020.jpgThe Twine 1972年 石のアトリエ/高松にて  The twineが初めての作品である。
巨石の前に太麻縄を天井から垂らした草房のなかにわたしが潜んだ作品だ。
光のママン同様に帰巣する。それは太古の大気を吸い込みたかったからだ。

ジャックラーセン、ミルドレッドコンスタンチンの共著であるBeyond Craft.The Art Fabric本にThe twineの作品が記載。ミルドレッドコンスタンチンは「モノと人間が触れあい親密に調和した関係を創っている」と書いている。



わたしは自然生態学や土俗信仰や密教思想にも興味がわき、また生のしくみのはかなさがにじむ、虚無感にもとらわれていた。
そうして都市の装飾扱いされるような環境造形の仕事に嫌気し、自分の原点、生きる居場所「自らの座する空間」を求め、自らの企画で空き店舗スペースを1ヶ月間借り、個展を開催した。芸術家としての一歩を踏み出した。

0027.jpg産霊ーむすび 1972年「あまりにも機能化された虚空の世の中で、人間本来の姿を育む、原初の心の空間を求めたい」と独りの人間が座す空間として「LinkIcon産霊—むすび」を発表。
八木マリヨの部屋—SD雑誌1972−7記載
腹のなかに鎮座する産神「産霊—むすび」
なぜ生をうけねばならぬのか、、、この殺伐の世に。


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1972年イサムノグチと出会いから

Isamu-Noguchi-4.jpg八木マリヨ初個展会場にてマリヨ、イサムノグチ、母
イタリアに行きたいと考えている頃イサムノグチと出会う。イサムノグチが日本に来るたびに高松のイサムアトリエで、あかりシリーズのモデルづくりなどをすることになった。
テキスタイルデザイナーのジャックラーセン会社社長と京都で出逢いがきっかけで、ファイバーアートを世界に推進していたニューヨークのジャックラーセン、元MOMAキューレーターのミルドレッドコンスンタンチン、アメリカンクラフツミュージアム館長だったポールスミスらに「The twine」「産霊—むすび」などの作品は「物語るソフトスカルプチュア=モノと身体」ボディアートと称され、新しいファイバーアートの作品だと注目された。

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八木マリヨとイサムノグチ


モノと身体との根源的な関係を見つめていたわたしは、世界に飛び立とうと思い切った。すぐアメリカ周りでイタリア、ヨーロッパの世界一周の航空券を働いてためたお金で買い込んだ。初めての海外へ出る旅であった。ニューヨークへ降り立つとイサムノグチが空港まで出迎えてくれていた。

ニューヨークではわたしの活動を40年以上にわたり注目しつづけてくれているジャックラーセン、ミルドレッドコンスタンチンに出会い、ファイバーアートの世界を知るきっかけとなった。ファイバーアート国際展や彼らの著書そしてローザンヌビエンナーレなどに推奨され、以後、数回にわたり入選することになった。

_conny-.jpgミルドレッドコンスタンチンとマリヨわたしはモノと人間の出逢いの瞬間にモノは存在し、人—ヒトも存在する。モノとヒトは対等に互いに存在する空間に気の流れが存在する。気である眼で見えない虚の形によって、モノもヒトも実という形として成りたつ。造形するとはモノの形を追求するのではなく、モノとヒトの間の見えない虚の姿を覗き見るためなのだ。だから、わたしがつくるモノはヒトと親密に関わり、目にみえる姿形よりも、虚のスペースHollow spaceを創ることが目的であった。


Midasiteiseibun4.jpgプリシラモーガン、マリヨ、イサムノグチ ベニスにて
消費大国のアメリカであったが、日本の現状はアメリカよりも消費文化を突き走り、古き良き伝統をおかまいなしに捨てようとしていると感じた。イサムノグチが「日本の伝統はいいのにねえ」という意味がよく理解できた。ニューヨーク滞在後、イタリアに旅しイサムノグチと合流しベネチアに行った。ベネチアビエンナーレの総監督建築家カルロスカルパに紹介され、ボローニャでポエジー詩的な家具をディレクトする奇才ディーノガビーナに会いにいくように助言された。


karu1.jpgカルロスカルパとマリヨ ベニスにてcaru1.jpgディーノ・ガビーナ、カルロ ・スカルパ、マリヨ ボローニャのガビーナ山荘にて



esbound.jpgエズラパウンドとマリヨ
ベネチアでプリシラモーガン女史と詩人エズラパウンドの自宅を訪問。
偉大なる詩人からわたしの手紙の季節の挨拶文を良い詩だと褒めていただく返事をもらった。手紙の冒頭に書く季節の挨拶は日本の習慣であるが、あらためて日本の良さに気づくことになった。

イサムノグチのイタリアピエトラサンタのアトリエに滞在したあと、ディーノガビーナを訪ねた。日本でも詩的なファニチュアをつくるアーティストがいると興奮し、そのまま試作をすすめられ3ヶ月ほど滞在し帰国した。


0032.jpgポエジーファニチュア  ボローニャにて試作 1972年0031.jpgふくら 1972年



0012swing.jpgSwing Play furniture with light 1972年ヨーロッパは古代より厳しい自然から隔絶しようと石を運び積んだ歴史、その人々とともに生きた縄、石を結わえ引っぱり持ち上げた縄、灰になりゆく縄を永遠にと石に縄が刻まれていた。石は何千年も何万年も前から今もなお語りかけ消えうる存在をも知らしめてくれる。だが、灰にもならない石に囲まれていると、生きづく灰になるものへの願望が強くなったのでした。


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照明指名コンペに選ばれ

1973年(25才)
ハープミラーによるフロアースタンド作品を見たエットレソットサスの推薦によりヤマギワ照明指名コンペに選ばれ、のちにLinkIconガルボシーズとなるリリアン糸による照明スクリーン原案を発表。70年制作の「光のママン」72年発表の「垂ず」紗布のスクリーンの発展の『光に包まれたい願望』イメージとして、障子のような効果の陰翳があり、光ゆらぐソフトな間仕切りとなる光のカーテンを制作。
固い石やコンクリートの空間に対して、柔らかでスイングするカーテン状で醸し出す新たなスペースが生まれる。身体性のある物語る光の装置であった。

この案は日本を代表する建築家丹下健三にとってあまりにも日本的だと嫌われ、日本を代表するプロダクトデザインナー栄久庵憲司やグラフィックデザイナーの亀倉雄策は従来のプロダクトデザインにない空間そのものを演出し、しかも提灯のようにたたんで小さくコンパクトになる機能にも優れた構造であると賞賛されたが、日本ヤマギワでの製造販売は不可であった。

1974年(26才)
母を連れてギリシャエーゲ海クルーズ、パリやイタリア各地など2ヶ月の旅をする機会に恵まれたので、再びイタリアボローニャのデイーノガビーナを訪ねた。わたしは糸の照明スクリーンデザインとして正方形、長方形、曲面、三角形の4タイプをデザインし、それぞれユニットを組み合わせることで空間演出が多様にしかも自由に可変できる天井直付け器具の図面を描いた。試作にはいった後1976年にイタリアシラー社より製造販売され世界中にロングヒットした。
現代イタリアグッドデザインに選ばれ、日本に巡回展が開かれた。

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ガルボ特集 

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『東京国立美術館工芸館所蔵品』

建築デザイナーのエミリオアンバーツはNYの保険会社オフィス空間を、ガルボシリーズを基調とする優雅なインテリアに一変させた。間仕切りスクリーンとしてガルボを天井から床まで垂らし、神秘的で幻想的な空間演出を成功させたことで有名。ガビーナが亡くなった頃からわたしから離れ、知らぬ間に日本製、ドイツ製、イタリア製の糸状カーテンだけが一人歩きしヨーロッパ、アメリカ日本などの舞台空間、商空間、住空間などに席巻し使われている。すなわち普遍デザインとなったのだ。

1973年〜1974年
建築空間に地域性、風土性、その環境空間に最もふさわしい形と材質を選び、金属、ガラス、テキスタイルなどを使用したパブリックアートを制作していたころ幸運にも、古代の都であったエリアにある神社仏閣の多い奈良県藤井寺市の市民総合会館ホールに作品依頼を受けた。
わたしにとってはじめて、麻縄をつかったパブリックアート作品「LinkIcon元と玄」制作ができた。

「元と玄」
1974年奈良県藤井寺市の市民総合会館ホール

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 京都伏見区にあった(株)西田亀の専務長谷川剛右と営業の原田芳種が担当されたことで、鏡面ステンレス鋼板の溶接加工だけでなく、山川正次がつくる麻縄との結合作業まで工場で行うことができた。この作品以降、刀を磨く伝統の技をも駆使して、難しい曲面の立体造形や多くの作品にも挑戦してもらった。

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1975年ローザンヌビエンナーレ入選

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1975年(27才)
「麻縄を垂直に自立させる」誰も縄が垂直に立つとは想像もしない。
しかし、わたしは縄の物理的構造すなわち、5本縒りの縄の中心に空洞がありその空間に同質繊維を芯にして5本のストランドを縄に綯うことに着眼し、同質繊維芯の代わりに構造体となるべき鋼管を使うことに成功した。

二元の合一イメージの『元&玄』作品と同じ鏡面ステンレス造形から麻縄が自立する
『The Root』を制作した。

石や金属に対して縄は弱い、朽ちる。しかし『元&玄』の縄は強かったではないか。縄なくしてストーンサークル、巨石立像、ピラミッドなど建造できたであろうか。しなやかで柔軟、弱い有機のものこそ真に強いといえる。現代は高度文明を求めれば求めるほどに、この弱き小さな生きものを切り捨てる社会になる。わたしは弱きものにこそ光を当てたいと、しなやかに自在に操れる縄を、あえて硬直に直立させたのだ。弱き縄は強い縁の下の力持ちなのであると。

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The Root ローザンヌビエンナーレ入選作 トムズポーリ財団所蔵
Midasiteiseibun6.tiff西田亀職人たちと完成記念
『The Root』は第7回ローザンヌビエンナーレ1975年入選以後、 ローザンヌ州立美術館常設展示、フランスクレアタピスリー選抜展、それ以降、トムズポーリ財団 la Fondation Toms Pauli/Swiss所蔵となる。

1975年第三回八木マリヨ個展/村松画廊/東京
0023.jpg1975 body art performance by Mariyo at Gallery Muramatsu/ Tokyo0001per.jpg


0429.jpgThe Root 1975年 第7回ローザンヌビエンナーレ出品設置中のマリヨ
1976年(28才)
この年までイサムノグチが日本に来る知らせの手紙が届くと高松のアトリエに行っていた。
ロンドン/ミニアチュールテキスタイル展入選 
ブリティッシュクラフトセンター


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滋賀県比叡平に小さなアトリエを建てた。アトリエで「Genou –b」作品を制作中、麻縄の縄目のなかに親指が挟まれるや、縄がどんどん親指を締めつけてゆくではないか。まるで縄はヘビのように生きていると恐ろしくなった。縄は生きている。まさに有機物なのだ。それは縄の縒りの迫力に驚かされた事件だった。縄とは相反する力の相克の中でぎりぎりに静止しているモノなのだと実感したのだった。他の物質のなかでこのような緊張と動こうとするエネルギーが孕んだモノの存在はあるだろうか。
わたしにその驚異を産み出してくれたのがGenou –b玄奥—bなのである。

0434.jpg麻縄師山川正次、エヴェリンワード、マリヨ


Midasiteiseibun7.jpg奈良市庁舎玄関ホール/タピスリー作品
1976年
奈良市庁舎玄関ホール パブリックアート作品:タピスリー 「飛天」作品制作



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1977年(29才)縄ロジイの発想

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1977年(29才)
2月結婚LinkIcon[The one] 1+1=1
自然色の麻で綯った縄1本と藍染めの麻で綯った縄1本を真ん中で組み合わせて1本のまっすぐな縄を作った。1本と1本確かに2本作ったのに1本になった。縄とは1+1=2ではなく、どこまでも1になるのだ。1+1+1でも永遠に1になる。
後にこの作品からアメリカ国旗と日本の国旗で1+1=1の作品を
作った。なにもアメリカや日本だけでなく、世界の国旗でつくれば世界は一つと表すことができると思った。
「The One」1+1=1作品は社会芸術であるLinkIcon縄バイタルリンクの発想を産むきっかけとなった作品だ。

イタリア現代デザイン展 京都イタリア文化会館
第4回個展京都イタリア文化会館
ガルボシリーズと縄立体作品
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00151.jpg0002garbo.jpg
東京国立近代美術館工芸館秀作展
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アメリカへファイバーワークス国際展での出品と講演をかわきりに、初めての海外での個展ニューヨークのハドラーギャラリーズ開催のために出向いた。

theoneone.jpgThe One  キューレーター/エヴェリン・ワード夫妻 ファイバーワークス国際展 クリーブランド美術館 0065.jpgGenou-b 1977 International Fiber works/Cleveland Museum/USA 1977 Solo exhibiition/Hadler Galleries New York/USA



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1977年ニューヨークで初個展

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Isamu-Noguchi.jpg「縄を綯う」作品とイサムノグチ」isamu.jpg


isamu&-Mr&-Mrs.jpgNY-hadler's-exhibition-open.jpg


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わたしはニューヨークで開く初めての個展会場に麻縄作品が醸し出す陰翳と縄が生きて動きだすように、空間そのものが作品となるように展示。オープニングではNYマンハッタンに住む人々が、アニミスティックな陰翳空間の気に溶け込んでいた。また、力強い作品だから作家はマッチョな男だと思われ驚かれた。なかでも片隅に掛けた小さな作品『綯う時』、原初の縄がもたらす宇宙に立ち止まわせたのか、イサムノグチと女性は食い入るように見つめていた。人間の原初的な手技の再現をしたような、素朴なヒトの手しごとそのものそのままを見せた作品である。



0438.jpgアトリエにて

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1978年(30才)ボディアート/パフォ—マンス

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1978年(30才)
1968〜72年ごろのボディアートがLinkIconパフォーマンスと呼ばれるようになった。展覧会会場、琵琶湖畔やコンクリート鉄筋がむき出しになっている京大の校舎壁やTVスタジオなどでパフォーマンスをおこなった。身体性、触知性、これらの感覚はわたしにとって大事な要素となっていたのだ。イメージから浮かび上がってきた作品が生まれるたびにパフォーマンスをおこなうことで、なにを求めていたのかを身体全体で感じ取りたかったのだ。3才のころモダンダンスで感じた身体感覚の延長だろうか。

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1978年〜 自立する縄

0076ice.jpg草の時
LinkIcon草の時』エンバ美術展入選、アートナウ兵庫県立近代美術館選抜、ローザンヌビエンナーレ入選 ノールディランド美術館/デンマーク所蔵
『草の時』 海洋で使われていたマニラ麻ロープを用いて錆びた鉄板と合わせた作品。 
後にローザンヌビエンナーレに入選
アートナウ兵庫県立近代美術館選抜 




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LinkIconA black mark 海洋で使われていたマニラ麻ロープを用いて錆びた鉄板で挟んだだけの構造で自立させた立体作品が出来た後、この作品を車がよく通る坂道に置きノーモアと言いたくなってA black markと名付けたのだった。
後にローザンヌビエンナーレに入選作

参考文献:美術評論家木村重信著作集 第7巻 ビジュツ評論P314
国際アートファブリックトリエンナーレ選抜 ロッズ ポーランド




0074.jpgThe rope in the sky
ハドラーギャラリーズ NY
オールリッチギャラリーズ サンフランシスコ
第3回ロンドンミアチュール展
NY A.I.R gallery


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1979年(31才) アメリカ大陸縦断からメキシコへ

0432.jpgルイバラガンの自邸、ルイバラガンとマリヨ

アメリカ大陸縦断ドライブの後、ミルドレッドコンスタンチンの紹介によりメキシコシティ、オハカ、マヤの遺跡を巡り、建築家ルイスバラガン Luis Barraganを訪ねた。

 古代マヤのアステカ文明の人々はケツアルを大気の神として崇拝し、「羽毛ある蛇」ケツアルコアトルのケツアルは鳥の名前、コアトルは蛇の意味で、文化、農耕の神であったとあるアステカ神話を知り、日本の神話や古代神道などに興味が湧いていった。



1979年(31才)
京都ハンドハウス画廊 個展
滋賀県 ドメイン画廊 個展
神戸 トーアロード画廊 個展
名古屋 ギャラリーU グループ展
アメリカニュージャージー サミットアートセンター グループ展

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A black mark
第9回ローザンヌビエンナーレ入選


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1979年長男 仁誕生

Midasiteiseibun8.jpg仁 生後3ヶ月
5月 長男 仁誕生
10ヶ月の身重のとき、子宮のなかからお腹を突き上げる小さな足の形がレリーフのようだった。羊水のなかでおもいっきり飛び跳ねる様はまったく鯉そのものだと感じた。日本では男の子の節句で鯉のぼりを飾る習わしがあるが、跳ねる鯉の姿に元気に育つことを祈った歳時に感心した。生命の躍動だ。


Midasiteiseibun9.jpg仁 生後5ヶ月 夕菜を妊る
夫が自営する環境事業計画研究所の経営が結婚前から多額な借金をかかえていることをはじめて知り、赤子をかかえながら会計経理を手伝うことになった。20代まで母に守られ経済的不安のない生活をさせてもらっていた私である。身のほどを越えた借財に加え、日常生活の経済的不安のうえに、わたしの育った環境と夫の家族構成、家庭環境や慣習のあまりにも異なることに戸惑い、世間知らずであったことを痛切に思い知っていくことになった。



1980年長女 夕菜誕生と母の死

Midasiteiseibun10.jpg夕菜生後1週間Midasiteiseibun11.jpg夕菜生後10日と1歳2ヶ月の仁


1980年(32才)
現代日本工芸染織展 群馬県立近代美術館 選抜
A black markを出品
国際ファイバーアズアート展 マニラ国立美術館 選抜
草の時を出品

7月長女 夕菜誕生 
産院を退院するや母は肺がんから脳腫瘍転移末期症状であることが判明。母、長男、長女の三人の命がわたしを必要としていた。半年後12月27日母亡くなる(享年60才)葬式の翌日、1才半の息子の仁は肺炎で入院。翌年3月父方祖母八木つる死亡(享年90才)

1981年(33才)生き地獄 10年間

壮絶な生と死にあいつぐ夫の破産。身のほどを越えた夫の借財を抱え込む

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比叡平のアトリエ住宅に移転。壮絶な生死に直面する半年を過ごし比叡平に戻ると、夫の研究所は倒産寸前であった。人間の汚さ醜さ小ささ弱さ脆さ、生き地獄の苦難はその後10年近く続いた。苦難な時代を乗り越えた母が「転んでもただでは起き上がらないのが大阪人の血だ」「松阪家代々の血は情が深い。情に棹させば情に流される」と松阪青渓家の言葉を口にしていたことを幾度も思い出した。情が深すぎることの煩悩に気づくには若すぎるわたしだった。

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1982年 カッセルパラレルドクメンタ展

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草の時、第12回ローザンヌビエンナーレ

アメリカ アートファブリックメインストレーム 展 The one

0473.jpgPerformance by Mariyo Yagi
1982年(34才)
ドイツカッセル K-18ST0FFWECHSEL現代美術のソフトマテリアル展  パフォーマンス
"草の時"第12回ローザンヌビエンナーレ入選 草の時




自分の意思に反して、自らの純粋芸術を追求する芸術活動を余儀なく中断をされた空白の30代だった。いつも青空を見て「空の上には空がある」と自らを励ましていた。その想いを後に絵本として完結する。
LinkIconおひさまはいつも の絵本 出版 2008年)

1983年(35才)
生活経済を支える仕事、夫の研究所の仕事、子育て家事に追われる日々のため、アーティストとしての新作は制作できず、70年代後半の作品を招聘される国際展などに出品しつづける。バブル経済のうごきにより、70年代におこなっていた環境空間の設計、造形を再開させるため、慣れない営業活動し、パブリックアートの仕事を受注するようになった。

0079.jpg
1983年
新しい織りの造形ファイバーワークス展
"A BLACK MARK"
群馬県立近代美術館
群馬

1983
版画展
KlausLometsch Gallery
Kasselドイツ

1983
ファイバーアート展
"A BLACK MARK" "草の時"
西武高輪美術館西武美術館
軽井沢

1983
第9回個展
"BALANCE-1~3" "steelseries"
天野画廊
大阪


silkp.jpg1983
WorldPrintFour版画展
"VIDEOseries-835012"
WorldPrintCouncil銅賞受賞
サンフランシスコ近代美術館
サンフランシスコアメリカ

シルクスクリーン版画に取り組み、わたしのボディアートパフォーマンスビデオ画像から解析しイメージを制作。このシリーズの一作が銅賞受賞となった。 


1983
現代日本の工芸ーその歩みと展開ー
"互いに"
福井県立美術館
福井

1983
ミニアチュールファイバーワーク展
マロニエ画廊 ワコール銀座アートスペース
京都・東京


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唯一の救いでもある2人の子供達

yunajinn.jpgyunajinn1.jpg
Yuna-&-Jinn.jpgMidasiteiseibun14.jpg比叡平アトリエにて仁と夕菜
1984 (36才)
二人の子供たち仁と夕菜がわたしの救いであった。育ちゆく子供の純粋な心と姿によってわたしはいつも教えられ、わたしの命の源であった。創作の源泉であった。環境噴水公園やひろば、プレイロット、遊具などのパブリックアートは二人の子供たちが遊び喜ぶ行動にそのまま、ありのままに従うことで生まれていった。
hieidairai.jpg比叡平アトリエ玄関にて仁と夕菜と

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1984年36才〜様々なパブリックアートの注文

0134star.jpg1984
LinkIcon噴霧ステンレス彫刻”星の精”
 伊丹市稲野運動公園
 西武関西 伊丹市

0138rock.jpgMidasiteiseibun15.jpg滝の彫刻”水神岩”環境彫刻庭園にて仁と夕菜遊ぶ


1985 (37才)
環境彫刻庭園 滝の彫刻”水神岩”制作
 作州武蔵カントリークラブハウス
 播磨観光株式会社 岡山

0006water.jpg噴水石彫広場 LinkIcon”アクアビットの丘”
つかしん 環境彫刻広場
西武セゾングループ 
兵庫 尼崎
制作年:1985年


0095rope.jpg1985
LinkIcon建築彫刻 ロープシャンデリア 縄の造形制作
  ”Hanging Rope in Atrium"
 関西針灸短期大学 玄関ホール吹き抜け
 関西針灸短期大学
 熊取町


morinosu.jpg森の巣 プレイロットで遊ぶ夕菜1986(38才)
LinkIcon環境彫刻 石彫刻”森の巣”プレイロット
 ゲートモニュメント
 コスモ・ザ・パークス 子供の広場
 リクルート・コスモス
 大阪



1986
 蘭 第12回世界会議 会場設計
 小田急・デスクK 
 神奈川

1986~7
 蘭 第12回世界会議 環境彫刻
 蘭 第12回世界会議 ゲートモニュメント
   ”虹の列柱”
 蘭 第12回世界会議 シンボルモニュメント 
   ”東洋の花生”
 小田急電鉄
 神奈川 向ヶ丘

1986
 ゲートモニュメント及び修景
 作州武蔵カントリークラブ
 播磨観光株式会社
 岡山

1986
 F邸庭園彫刻”連”
 F氏
 京都
中国モンゴル自治区に講演の旅。

Beverly-Pepper-at-Kyoto.jpgBeverly Pepper at Cosmos of Kyoto 198701741000.jpg


Midasiteiseibun16.jpg”京のコスモス”にて夕菜と仁 遊ぶ


1987年(39才)
環境彫刻
LinkIcon石彫噴水広場 ”京のコスモス”
 京都府総合見本市会館
 京都府 日本宝くじ協会
 京都


1987
 金沢新港土地利用基本構想
   「金沢シーナリー」
 石川県 金沢港産地直売組合
 金沢

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1988年40才 魂のマグマ

1988(40才)
 大野からくり博物館
 「大野こども発明工夫の島」基本構想 金沢

わたしは創造性豊に育む子供ミュージアム体験宿泊型の「大野こども発明工夫の島」を提案。遊びながら学ぶ自然の法則や地球の営み、不思議から工夫する力を養う施設として大野町の地域全体の環境修景と建築プランのデザインをした。
この案は後に建築家内井祥藏が建築プランをもとに大野からくり博物館を設計し建設されたことを完成後ずいぶん経ったころに知った。わたしが作り上げた基本設計であっても、芸術家個人では官庁の仕事は受けられないこと、建築土木造園の仕事を依託されるのは無理であると知った。わたしが土木造園建築施工を請け負う資格を取り、会社を作った理由の一つである。

0158.jpg

1988
 建築彫刻 ブロンズ・ガラス・大理石による
LinkIcon彫刻 ”和泉の鳥”
 泉陽信用金庫本店新築玄関ロビー
 泉陽信用金庫
 大阪 堺



カナダバンフアートセンター 夏、冬の講座で教える
後にバンフは子供たちの高校留学先となる


Midasiteiseibun17.jpgオーストラリアにて夕菜と仁と影Midasiteiseibun18.jpgエアーズロックにて夕菜と仁


1988年
前年の夏、初めて二人の子供たちと3人でオーストラリア タイ旅行
アトリエは客人もよく宿泊し、実に様々な肌の色の人々が滞在していた。

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螺旋の縄の本質:地軸

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1988
 建築彫刻 麻縄・鉄・コンクリートによる
詳細:LinkIcon彫刻”地軸”詳細ページへ
京都精華大学新校舎風光館ロビー
 京都精華大学
 京都


Bevery-Peper.jpgDani-Karavanpolar.jpg
URB.jpgpolaraxis7.jpg
ベバリーペパー夫妻、/ ダニーキャラハン夫妻、/URBとマリヨ 

建築都市計画家上田篤がラセンに興味を抱いておられ、螺旋階段の空間
にモニュメントを制作してほしいと依頼を受けた。願ってもない螺旋
「縄」の本質に立ち戻れる仕事をいただいた。
30代の空白期間に溜まりに溜まっていた魂のマグマが吹き出した。
わたしが40年生きてきた道のり、1才で初めて歩いた歓びのように
再び、真にわたしの生命の道を歩むことができる幸せと感謝に溢れた。
「地軸」は芸術家として再起するきっかけとなり、多くを教えられた
記念碑的代表作である。完成後、詩を書いた。この詩をいまだにわたしは
涙なくしては読めない。
LinkIcon詩:地軸 作品詳細ページへ

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1989年41才 闇のしがらみからの解放

10年間の生き地獄から脱出

10年近くかかり、夫の研究所も再起動しはじめた頃、あまりにも多くを背負い込み過ぎる業の深いわたしはすでに心身ともに擦り切れ、自分がわたしでなくなっていた。わたしの命がこのまま擦り切れたら、子供たちはどうなるのか。考え思い悩んだ末、離婚した。ようやく、わたしがわたしとして生きることは心の底から幸せなことだった。月に何度も病院にかけつけていた喘息ぎみの長男がみるみる元気になった。闇のしがらみから解放され、健康で明るく楽しい三人の暮らしが始まった。

carola-&-richie.jpgCarola& RichieAllter.jpgハムディ エル アタールとマリヨ  Hamdi el Attar
Dani-Karavan-kanazawa.jpg金澤毅、マリヨ、夕菜、仁、ダニーキャラハン 比叡平アトリエにて
1988 
前年の夏、初めて二人の子供たちと3人でオーストラリア タイ旅行
アトリエは客人もよく宿泊し、実に様々な肌の色の人々が滞在していた。



mariyoumehara.jpg対談 梅原猛とマリヨkawai.jpg夕菜、河合隼雄、マリヨ


0427.jpg対談 佐原真、マリヨ
1989(41才 10才、9才
哲学者梅原猛が代表の日本文化デザイン会議会員となり、考古学者佐原真、
中国思想研究者永畑恭典、動物行動学者日高敏隆、臨床心理学者河合隼雄、
文化人類学者竹村真一など多くの学者や文化人との交流で、
わたしの考えてきた縄学(縄ロジー)が深まっていった。


JINN48.jpg45億年の記憶インスタレーションを手伝う仁 1989年1989年
45億年の記憶
インスタレーション
日本文化デザインフォーラム展幕張メッセ 千葉


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1990年42才 神様のどろんこ遊び

仁、夕菜と友人の子供3人総勢5人の子供たちと大人の私一人でアリゾナの旅

Midasiteiseibun19.jpgアリゾナキャンプの旅
Midasiteiseibun20.jpgタオスにて迫村裕子とその子供たち、八木マリヨの子供たち

仁、夕菜と友人の子供3人総勢5人の子供たちと大人の私一人でアリゾナ、ニューメキシコの砂漠地をキャンプする車旅をした。

神様のどろんこ遊びのような地球の45億年の創成歴史を物語る地形の造形空間。大地を走る私の手は空につきそうで、宇宙と大地が一体のような地層形成物語のわたしたちは登場人物になっていた。ナバホ族の空を父、大地を母、その子供である人間、天と地の境のない暮らしである。古モンゴロイドの子孫であるアメリカインディアンと日本人の通底する自然観、宇宙観だ。宇宙、地球のドラマに敬虔に臥した祈りある暮らしの根源は同じと実感する冒険旅行であった。

その年、土そのものを扱う左官の仕事に注目し、左官職人の村上博と出逢い、互いの知恵と技を出し合い、従来の左官仕事から景観芸術作品として、公共の場に広く親しめる伝統技を活かした新規開発に恊働していくこととなった。

わたしの大陸で得た地球のドラマ体験から1991年竣工した環境彫刻 ”千里地層形成物語”アートスケープ「地球縄ひろば」に繋がった。

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1991年アートスケープ/左官職人の村上博と出逢い

最大級のパブリックアート 地球縄広場

0449earth.jpgその年、土そのものを扱う左官の仕事に注目し、左官職人の村上博と出逢い、互いの知恵と技を出し合い、従来の左官仕事から景観芸術作品として、公共の場に広く親しめる伝統技を活かした新規開発に恊働していくこととなった。わたしの大陸で得た地球のドラマ体験から1991年竣工した環境彫刻 ”千里地層形成物語”アートスケープ「地球縄ひろば」に繋がった。


Allter.jpg地球縄ひろばを訪れたハムディエラターと助手エリザベス
環境彫刻 ”千里地層形成物語”
LinkIconアートスケープ 地球縄ひろば詳細ページ
千里センター サンタウン 北ブロック
(財)大阪府千里センター

参考文献:
nawalogy 縄ロジイ:縄構造ダイナミズムとThe 縄概念 八木マリヨ

1991年アートスケープ/左官職人の村上博と出逢い


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1990年土木建設業建設大臣許可取得—会社設立

1990(42才)
LinkIconIPA 株式会社インターナショナルパブリックアート設立
自然、歴史、地域風土、人々の暮らしと芸術が一体となる環境芸術を創る総合芸術としてのパブリックアートを請け負える資格を取りたかった。

(参照:環境創造維持監理復元技術集成、第三巻 快適環境の創造編
第2部−2−5景観芸術の勧めー都市空間の総合芸術 八木マリヨ,など )

現代ガラスの造形展
  "和泉の鳥" 彫刻の森美術館 神奈川県

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地球環境/国連開発計画グローバルフォーラムメンバー

princess-elizabeth.jpgプリンセスエリザベス
1991年(43才)
旧ユーゴ最後の王室プリンセスエリザスがわたしの比叡平のアトリエを訪ねられたことがきっかけで、国連開発計画が関わるグローバルフォーラムの一部門であるアーティストメンバーに推薦され、アメリカ、ソルトレイクで開催されたアーティスト会議に出席した。
グローバルフォーラム参加


1990~91年
サンシャインパシフィックセンタープラザ
リトルトーキョー 縄ひろば
アトリウムシンボルモニュメントプランニング
マルフジ・ ロスアンゼルス/アメリカ 

ロスアンジェルスまで2度プレゼンに出向き、契約寸前に1991年1月17日湾岸戦争勃発により、プロジェクトはバブルのように消えてしまった。そういえば、イサムノグチもデトロイトの仕事がなかなか決まらないので、日本にいつ行けるかわからないと何度も手紙をもらっていた。「コミッションの仕事は相手次第、思うようにならない。こうやって日本にも来られるのも僕のちょうちんの“あかり”のおかげだ」と話し、イサムノグチの苦労の一旦をのぞいたような気がしていた。

1992年 (44才)
兄八木康之48才死去

Midasiteiseibun21.jpg
京都府綾部市於与岐の過疎山村の土倉あのある風景に憧れ、子供たちに日本の原風景のような昔のくらしに触れさせるため、衝動的に求めた。



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1992年生命遺伝子の源の姿
第15回ローザンヌビエンナーレ

Midasiteiseibun30.jpg
第15回ローザンヌビエンナーレ
LinkIcon原始惑星系DNA-912
C.I.T.A.M.
ローザンヌ州立美術館
ローザンヌ スイス

生命遺伝子の源の姿を表現したこの作品はビエンナーレ以降、各国際展に
出されるが、後に青森縄文遺跡小牧ストーンサークルの中に設置し、
縄文映画が撮影された。



ローザンヌビエンナーレ作品搬入とモベージュアーバンアートのコミッショナーに会うため、春休みの子供たちを連れてローザンヌ、パリ、ベニスをまわった。



LinkIcon地球文化のDNAーブラジルと日本1992年

Midasiteiseibun77.tiff地球文化のDNAーブラジルと日本1992年 「地球は丸い」と感じた作品だ。
1992
ブラジル/リオアースサミット/オマメプロジェクト出品参加。
出品作品の 地球文化のDNAーブラジルと日本は
地球を貫いて、南半球のブラジルと北半球の日本に縄が芽生えるイメージだ。それは地球の生命の芽だ。



1992
’92URBAN Art CONTEST in Maubeuge
モーベージュ フランス  
フランス モーベージュ市 縄ひろば 入選
再開発アーバンアート指名コンペ・モデル展
フランス モーベージュ市

入賞したモニュメントは実際に施工されるはずだったが、市長交代によりプロジェクト実行されずに終わった。
アメリカのスカルプチュア誌の表紙を飾ったわたしの代表作『地軸』の実物を見たいと家族で会いに来られたダニーキャラハンも決まりかけていたプロジェクトも政治家の交代で多く消えて行くものだと話し、それにしてもわたしのパブリックアート作品の多さに驚いていた。

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1992年44才 リオアースサミット

世界芸術文化会議OMAME PROJECT

0421brazil.jpg0422brazil.jpg
0455brazil.jpg0454brazil.jpg
ブラジリアの貧民街の子供たちとお年寄りとの縄ワークショップ

1992
ブラジル/リオアースサミット/オマメプロジェクト出品参加。
出品作品の 地球文化のDNAーブラジルと日本は
地球を貫いて、南半球のブラジルと北半球の日本に縄が芽生えるイメージだ。それは地球の生命の芽だ。

0423brazil.jpgわたしは日本国際交流基金助成を受け、グローバルフォーラム
世界芸術文化会議OMAME PROJECT 環境アート展に参加した。
ブラジリアで、インディオの血も継ぐブラジル文化相になったアーティストのベネフォンテレスや世界各国から招かれた詩人、音楽家、劇作家、美術家64人とも、地球市民として言葉を越えて繋がった5月の1週間であった。

一ヶ月後の6月リオアースサミット参加のため再びブラジルに飛んだ。
エストニア共和国として独立する前、エストニアから亡命していた国民的英雄歌手URBと出会い、わたしは島根県グローバルフォーラムアジア会議に招聘することに奔走した。


URB.jpg国民的英雄歌手URB0453.jpg

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ニューヨーク拠点

1992年ニューヨーク拠点つくりのためマンハッタンに拠点としてのアパートを持つことになった。

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1992年 現代美術交流展 in 横浜 "LinkIconMissing cube"
 現代美術交流展実行委員会 神奈川県立県民ホールギャラリー 横浜 神奈川県

1992
個展
"MIssing Cube"
法然院
京都

1992~1993
国際美術展 "草の時"
The Nederland Textile museum

ティルブルグ オランダ

1992
 第一回 街路樹会
 街路樹会・芦屋市・芦屋市教育委員会
 芦屋市民センター
 兵庫芦屋
 1992年 島根アジアグローバルフォーラム

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1993年45才東西南北地球を渡る

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1993年 (45才)

LinkIcon和泉のコスモス
場所 : 貝塚市民文化劇場 コスモスシアター前広場
制作年 : 1993年


0443cosmosspring2.jpg0445ice.jpg
宇治田原のアート大仏、ブロンズ制作中
高松和泉石材にて

関西国際空港近くに位置する、歴史ある貝塚市の文化施設前広場のパブリックアート作品づくりのため、
1992年から高松の和泉石材と京都宇治田原のアート大仏工房と現場を行ききし、1993年3月に完成した。

1993年も地球を東西南北に駆け回る年だった。日本に帰国時は93年と94年のための制作にかかり、展覧会や現地制作などのため、すぐ海外へ飛び立つ年であった。

早春3月下旬、アイルランドノースメーヨー地方彫刻シンポジウムで現地制作するサイト選びの現地下見のため3日間だけ、初めてのアイルランドに向かった。遺跡の対岸のキルコラムヘッド半島の付け根にあたる、湾曲したラックン湾を見渡す断崖斜面にわたしのサイトを決めた。大地に海の景観を取り込む“彫刻”ができるとわくわくした。

新聞記事原稿:京都新聞1993年9月1日水曜フォーラムに寄稿文
1993年7/26産經新聞東京インタービュ記事アイルランドにアート遺跡

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5000年祭アイルランドアート遺跡

ラックン湾 北メイヨー地方 
アイルランド

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1993
彫刻シンポジウム 北メイヨー5000年祭
LinkIconTIR SAIL sculpture trail アート遺跡
アースワーク・ザ・エコー・オブ・ナワスケープ
sculptor's society of Ireland Mayo Country Council
ラックン湾 北メイヨー地方 
アイルランド

0296earth.jpg

6月14日再びアイルランドに臨時アシスタントに松村学も同行した。
初夏といえ、吹きさらしの断崖で早朝から暗くなる夜9時ごろまで野外制作する
肉体労働の3週間だった。

 "エコーオブナワスケープ"と名づけた景観芸術、アースワークを築いた。 

「悠久の時間に包まれた風景への鎮魂歌 」
 "エコーオブナワスケープ"
 ランドスケープデザイン 第二号

キララ湾側の地域の人が、港埋め立て地8ヘクタールにも作品を制作して
欲しいと依頼された。

広大なヘドロ地に植樹し、地域の交流の場になれるインターコミュニケーションパークをつくることを提案した。図面をかいている時間はない。石灰の粉を手に、敷地を走り回り白いラインを描いて行った。現地現場設計だ。

錆びたブイには黄色に塗装することやどの角度でどのように設置するか指導し、転がる岩の配置、地元高校生たちにも作業をしてもらうことを指示したのだった。

1993
 公園設計
  ザ・インターコミュニケーションパーク
 Kilala Comunity
 キララ湾 北メイヨー地方 
 アイルランド

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0311earth.jpg0309earth.jpg
松村学/アイルランド高校生、教師たちとマリヨ/シャベルでバランスとり、足で形を整えるマリヨ

わたしにはアイルランドアートスケープの仕事だけでなく、真夏8月に開くブラジルリオでの展覧会準備があった。
カタログ原稿のことやインスタレーション材料の手配などなど当時はインターネットもなく、ファックスのやりとりをしなければならなかった。

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三人の女性環境展『三つの大地の歌』

1993 8/5~9/14
ブラジル・アメリカ・日本
三人の女性環境展『三つの大地の歌』
TRES CANTOS DA TERRA”
リオデジャネイロ国立美術館 ブラジル

1993 11/9~12/14
 ブラジル・アメリカ・日本
el.jpgspiral locomotin
LinkIcon三人の女性環境展”NATURE IN PROCESS”
 ハンタ−カッレジア−トギャラリ−
 ニューヨーク、 アメリカ



1993
 アムステルダム・インターナショナルスクール
  景観デザイン基本設計
 アムステルダム
  インターナショナルスクール オランダ
 オランダ



展覧会 ;  Tres Cantos da Terra
ブラジル・アメリカ・日本三人の女性環境展『三つの大地の歌』
日時 : 1993年8月5~9月14日国立21世紀ギャラリーリオデジャネイロ国立美術館 
Midasiteiseibun23.jpgブラジルリオ国立美術館アメリカ日本ブラジル女流3人展―展覧会準備作業する仁と夕菜Midasiteiseibun24.jpg



1993アイルランドにアースワーク作品を2つ制作し7月初旬帰国した後、ニューヨークとオランダでの展覧会準備をこなしながら、7月下旬ブラジルへ、夏休み一ヶ月子供たちと旅立った。ブラジルリオ国立美術館アメリカ日本ブラジル女流3人展―展覧会に出品する作品は仁と夕菜とわたし3人の手荷物として持参したものとインスタレーション。美術館であらかじめ用意をお願いしていた岩塩、松ぼっくり、ロープ、古い木などによるインスタレーションワークを、スケッチすら見せないまま、イメージを話ただけで、仁と夕菜は完璧にわたしのアシスタントとなり、インスタレーションを具現化させた。しかも言葉の通じないブラジル人スタッフと身振り手振りで道具を借りての働きぶりだった。
オープニングの後、子供たちとご褒美にイグアスの滝、アマゾン流域へ旅した。

Midasiteiseibun25.jpgブラジル・アメリカ・日本三人の女性環境展『三つの大地の歌』 オープニング/リオデジャネイロ国立美術館  仁と夕菜がアシストした松ぼっくりインスタレーション作品の前で Midasiteiseibun26.jpg仁、夕菜とイグアスの滝にて



1993年 (45才)
LinkIcon和泉のコスモス
場所:貝塚市民文化劇場 コスモスシアター前広場
制作年:1993年

wasenkosumosu.jpg和泉のコスモス 現場工事中 1993年wasen1.jpg和泉コスモスのブロンズ部分制作中 宇治田原のアート大仏にて


wasen2.jpg和泉のコスモス 花崗岩堀部分制作中 高松和泉石材にて

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大いなる生命のうねり

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1993
 ソフトスカルプチャ 展
   "LinkIconUndulation”  
 ボンメルヴァンダム美術館
ヴェンロウ オランダ

 赤い縄が地面を縫い、建物を縫う。
展覧会場の壁面から赤い縄が突き出る。
"Undulation>大いなる生命のうねりだ。



1994年 46才

1994/1/17当日ロスアンジェルス大地震をまるで予知したかのごとく、ロスを急に離れたくなりNYへ飛んだ。ニューヨークのラガーディア空港に降り立った時間にわたしが滞在していただろうマリブの山が大地震による火災となっていた。

その後、ニューヨーク ハンターカレッジ アートギャラリーから引き続く展覧会として、カルフォルニアクラフツ美術館にて開くアメリカ日本ブラジル女流3人展のため、サンフランシスコへ向かった。ブラジルではブラジル人作家のリアドリアが開催コーディネートし、アメリカではアメリカ人作家のパトリシアジョハンソンがコーディネートした。
kazokuNY.jpg仁、マリヨ、夕菜 ニューヨークアパートにて

1994
 アン・スペリー+八木マリヨ展  
 法然院
 京都

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1994年46才芸術は文化の違いを超克

1994
ブラジル・アメリカ・日本
三人の女性環境展
” COSMIC-MATERNAL-新たなる神話へ”
ギャラリー日鉱 東京
nobelheiwa.jpgブエノスアイレス出身のノーベル平和賞受賞者ペレスエキスベル、三人の女性環境展会場にて
芸術を愛するブラジル大使、現代美術パブリックアートを推進するアメリカ大使モンデール夫人、アイルランド大使を以前からわたしは存知あげていたので、オープニングにお招きした。また、アルゼンチンのノーベル平和賞を受賞された彫刻家でもあったペレスエスキベルにも展覧会を見ていただいた。わた
しは積極的に動いたのだった。このような方々にわたしたちの芸術活動を見てもらいたかった理由は、リオアースサミット環境声明で持続可能なる地球を守るためには価値の変革とうたわれたことを、芸術家として真っ向から自分たちの問題として挑戦し、新しい芸術を示していること、芸術の新しい役割を世界
に広めて欲しかったからだ。
この一つの地球のために。


Midasiteiseibun27.jpgアメリカ大使モンデール夫人と三人の女性環境展ギャラリー日鉱にて
各国において、各作家自身が展覧会のタイトルと主旨内容や開催会場などすべてコーディネートすることを条件に薦めてきたリア、パトリシアとわたしであった。
いよいよわたしの番となり日本に置ける最終の展覧会だった。
美術評論家村田慶之輔の紹介から企業メセナとしてジャパンエナジーが開いているギャラリー日鉱を紹介された。バブル崩壊期最後にもかかわらず、多くの予算を投じて環境展を開催してもらった。村田氏を司会者に、哲学者梅原猛を招き、3作家とのシンポジウムも開催をお願いした。芸術を愛するブラジル大使、現代美術パブリックアートを推進するアメリカ大使モンデール夫人、アイルランド大使を以前からわたしは存知あげていたので、オープニングにお招きした。また、アルゼンチンのノーベル平和賞を受賞された彫刻家でもあったペレスエスキベルにも展覧会を見ていただいた。わたしは積極的に動いたのだった。このような方々にわたしたちの芸術活動を見てもらいたかった理由は、リオアースサミット環境声明で持続可能なる地球を守るためには価値の変革とうたわれたことを、芸術家として真っ向から自分たちの問題として挑戦し、新しい芸術を示していること、芸術の新しい役割を世界に広めて欲しかったからだ。
この一つの地球のために。

哲学者梅原猛の挨拶から抜粋「八木さんは前から知っている作家ですが、最近の作品は一段と磨きがかかったと思います。八木さんの縄の芸術は縄文の世界だと思います。縄文文化という日本の伝統に深く関わり、どこか禅と関係している。根源的な生命を問う芸術だと思います。そして、アイルランドでつくられた作品の記録写真を会場で見ました。ここにアイルランド大使ご夫妻もおみえになっておられますが、わたしはイエーツの詩が大好きです。イエーツの世界を思わせる風景に、現代的で、日本的な八木さんの芸術が生きていることを見て、日本人として誇りに思い、うれしく思います。三人とも単なるエコロジーの芸術家ではない。エコロジーを問題としながら、人間とはなにか、世界とはなにかを完全に表現しようとする芸術家たちです。環境問題に関しては女性のほうが熱心ではないか、女性に任せたほうが人類のためにいいのではないかとも思いました。」駐日アメリカ大使夫人ジョーンモンデールの挨拶から抜粋
「芸術は文化の違いを超克するとよく言われます。『Cosmic Maternal』は、まさにそれを具体的に示しており、私たちの周囲の世界をあらためて見直す刺激を与えてくれます。」
美術評論家村田慶之輔シンポジウム司会まとめ言葉の抜粋「八木さんは縄の構造から、ド リオさんは葉の変容から、ヨハンソンさんは生物の生態からそれぞれ生命を感じ、学んでいる。共通するのは、芸術そのものは特別のことでなく、日々の見近なことがらを感じとり大切にして、真摯に生きていくことを通して、地球や宇宙的生命環境を深く考えさせる契機となることを切実に想っていることです。ここ三人の女性作家による展覧会の日本のタイトルを『ブラジルアメリカ日本COSMIC MATERNAL- 新たなる神話へ』 としたのも、いま真剣に求められているものは、私たち地球世界にあって、母性原理に根ざし、宇宙論的に深く生きることであり、そうした根源的願いこそ、イメージの輝きをもつ新たな神話の想像に向かうと思ったからです。」

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バブル期の頃に、わたしは日本の平凡な田舎の里山風景にある京都府綾部市於与岐安田の朽ちそうな土蔵がある田舎屋を手に入れていた。比叡山中腹を真っ平らに造成開発された宅地で琵琶湖を一望する、一般の一軒家としては大きな鉄筋コンクリート3階建ての住宅兼アトリエで育っている子供たちに、自然と共生する日本の里山原風景での暮らしを体験させるためのものだった。そうしてバブル経済崩壊。土地不動産価格下落、パブリックアートなどの仕事がなくなった。企業のアートメセナ活動もなくなっていった。とりわけ、都会育ちであったにもかかわらず土地への愛着を持つ母から、受け継いだ知恵「土地さえあれば」質実な生活をし、土地を所有することが将来に備えるという考えが染み付いているわたしにとって、土地信仰破滅という出来事は大きなショックだった。


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1995年阪神大震災

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1995年47才 16才、15才
阪神淡路大震災 1/17の日前夜、神戸三宮のホテルに宿泊する予定だった。午後9時ごろになって急に、17日の会列席を理由もないのに断り、比叡山中腹の比叡平に帰宅の途についたのだ。休んで間もない翌朝5時46分52秒、ドーンと突き上げられた。宿泊予定だったホテルが横倒しに完全倒壊していた。わたしはまたしてもロス大地震の時のように、虫が知らせたとしか言いようが無い。
わたしはナマズのような動物的感覚があるのかもしれない。
食料と水4Lなど物資を詰めたリュックをかついで、西宮から父が住まう須磨まで約50km以上の道のりを線路づたいに歩いた。高速道路、高架線路、建物なにもかもが崩壊か歪み、その異様な光景に平衡感覚を全く失っていた。指針となる垂直、水平軸が混乱したままでは、訓練されていない人間は目眩の連続だった。街はコンクリートが剥がれ、瓦礫の山。震災直後、まさに近代都市であった神戸には「土と水」がなかった。「歩くことを忘れていたなあ。便利すぎたんやで」「みんな心一つに助け合った」と声が聞こえてくる。
わたしは芸術家としてなにができるのだろうか。わたしが育った御影や芦屋で被災者が集まる震災復興の集会に顔をだし討論し合った。
震災直後に開いた神戸での個展で、考古学者佐原真、生物学者中村圭子らをゲストにトークの会をした。日本文化デザインフォーラムで、形の文化会でと機会をみつけて、講演やシンポジウムで震災越える道標について発表した。

1995 
八木マリヨ個展 
”ライフルネッサンスの森” 

夢創館 神戸
1995 〜1996
"神戸ルーツ"インスタレーション
  ”神戸市民500人と制作コミュニティアート”
 八木マリヨ 御影連合青年会
 弓弥羽神社境内 東灘区御影町郡家
 神戸

形の文化誌3生命の形身体の形—工作舎出版 
エッセー:地球にすれば 八木マリヨ
参考文献:形の文化誌3生命の形身体の形—工作舎出版 
八木マリヨ講演;有機的文化都市のイメージ〜阪神大震災の今

nawa2.jpgnawa1.jpgnawa3.jpg

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1995年47才震災後 生まれ故郷のために

『心の絆』をもう一度思い起こそう

Midasiteiseibun28.jpgカナダ留学した仁と夕菜とMidasiteiseibun29.jpg



0531kobe.jpg地下鉄サリン事件 3/20が起こり、収入の道として4月神戸女子大大学院助教授就任した。仁、夕菜 カナダにある高校留学に送り出したあと、いよいよ生まれ故郷の神戸のためになにを成すべきか。
6月神戸市御影郡家宮浦、弓弦羽神社鎮守の森の裏側で生まれ育ったわたしは、神社はわたしの原風景であり、原点だった。

babymariyo1.jpg写真:マリヨ1才神社境内で初めて立ち歩きしたとき


被害に遭われていた弓弦羽神社の澤田政泰禰宜を訪ねることから始めた。
1本の草は弱いが,多くをいっしょに綯えば強い縄になる。DNAと同じラセンの縄で生命のつながりを表現する縄リンクプロジェクトをブラジルやアイルランドでおこなったように、人の絆を象徴する巨大な縄の塔を建てる「縄—心の絆(ルーツ)みんなで縄(街)をつくりましょう」企画を持ち込んだ。澤田政泰禰宜、御影連合青年会が「震災直後にみんなで助け合った絆の充足感が時間とともに薄れゆく都会社会への不安。『心の絆』をもう一度思い起こそう」と立ち上がってくれた。

0513kobe.jpg被災地御影青年会のみなさんに説明する

頑強で便利を重んじすぎた無機的な過密都市。弱く多様な草が縒り合わさって1本の縄になるように、弱いが柔らかい有機的なつながりを大切にする都市に復興して欲しい。生命のつながりによって生きる生物としての人間も自然も人工なるものも、多様に綯われるような都市に復興して欲しいと願った。不要なものを排除する現代都市。一見、無意味な謎の空間、心の散歩が出来る場所に人や地域のエネルギー活力が集まる。震災で倒壊したことを由として、区画整理でますます簡単に、謎の空間や場所は排除される。その前に、被災地域の人びとが心をひとつにして綯った縄の塔を立ち上げれば、一見、無意味な事や謎の空間が地域の人ひとりひとりの“心の宝物”の軸となって、地域の原風景をみんなで築いていく原動力になるだろうと思った。

神戸新聞記事 ルネッサンスのために 有機的景観文化都市 八木マリヨ 1995年6/15付

地元メディアを中心に全国メディアをとおして呼びかけで、擦り切れたTシャツ古着に励ましのメッセージを描いて全国から届けてもらった。頑強で便利を重んじすぎた無機的な過密都市。弱く多様な草が縒り合わさって1本の縄になるように、弱いが柔らかい有機的なつながりを大切にする都市に復興して欲しい。生命のつながりによって生きる生物としての人間も自然も人工なるものも、多様に綯われるような都市に復興して欲しいと願った。うわべだけのクリーン安全をうたい、コンクリートで覆い尽くし、不要なものを一切排除してきた現代都市。一見無意味な謎の空間、心の散歩が出来る場所に人や地域のエネルギー活力が集まる。震災で倒壊したことを由として、区画整理でますます簡単に、謎の空間や場所は排除される。その前に、被災地域の人びとが心をひとつにして綯った縄の塔を立ち上げれば、一見無意味な事や謎の空間が地域の人ひとりひとりの“心の宝物”の軸となって、地域の原風景をみんなで築いていく原動力になるだろうと思った。
0533kobe.jpg被災されたみなさんと完成し祝杯する
(参照:神戸新聞記事 ルネッサンスのために 有機的景観文化都市 八木マリヨ 1995年6/15付)

9月10月境内で縄綯い作業
1995年11月
LinkIconKOBE ROOTS 縄−心の絆 阪神大震災後の復興のために、神戸市御影町弓弦羽神社 で、被災された延べ500人の市民の人々とともに、大縄をない、境内に立て上げる。 全国から一万着の古着とメッセージがよせられ、古着をつなぎ、高さ8m太さ1mの大縄 の塔が完成。

(TV報道: NHK にんげんマップ、TVS筑紫哲也ニュース  MVS   )


1995
 銅鐸の美展
  ”考古学のためのシンボルモニュメント”
  "太陽風・響"
 国立歴史民族博物館
 千葉

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Midasiteiseibun31.tiff
1995
 ”環状列石   縄彫刻インスタレーション”
  "LinkIcon原始惑星系DNA-912
 縄文映画第2作 一万年王国
  縄文映画製作委員会
 青森市戸小牧野遺跡
 青森



moerunawanotou.jpg

1996年48才
鎮魂の火
1996
"LinkIcon神戸ルーツ"  ”アートセレモニー”
八木マリヨ 御影連合青年会
弓弥羽神社境内 東灘区御影町郡家 神戸
1996年1月
KOBE ROOTS NAWAアートセレモニー 鎮魂の縄1,000人が見守るなか、大縄の塔に点 火。翌朝、NAWAの灰を集め、心の記憶として作品を残す。



1996
 ワシントン ジャパンインフォメーションセンター展覧会と講演
阪神淡路大震災
 八木マリヨ個展 
”神戸ルーツメモリー”
 ワシントン日本大使館
 ワシントン日本情報センター
 ワシントン アメリカ

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1996年48才イタリア クアラッタビエンナーレ

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1996
 第二回クアラッタ都市デザインアートビエンナーレ
 "LinkIconグローバルNAWA inクアラッタ" 
 市の主産業廃棄物再利用
 クアラッタ市庁広場
 ピスストイア クアラッタ市イタリア


1996年6月
LinkIconNAWA LINK IN QUARRATA ITALY、ピストイア高等学校の学生たちといっしょに、地場産業のリサイクル布フェルト材を用いて、NAWAインスタレーションをクアラッタ市 の広場に完成。  PEOPLE'S NAWA BY PEOPLE IN QUARRATA 50人の市民と市民広場で古着をつないで、 NAWAパフォーマンスをおこなう。イタリア、クアラッタビエンナーレ招聘。

1996年6月ゴーリとミランダがオーガナイズするイタリア、クアラッタビエンナーレ招聘された。
クアラッタ市はフィレンツエから小1時間の小さな街で主産業は家具工場であった。1週間の滞在期間でクアラッタ市の地元で手に入る、主産業廃棄物再利用の素材を使用し、市庁広場にNAWAインスタレーション “NAWA LINK IN QUARRATA ITALY”を行う事にした。
短い期間で材料決定から調達にはじまり、多くの恊働作業者と交流しながら制作することはきつい仕事だったが、わたしはさらに、その広場でPEOPLE'S NAWA BY PEOPLE IN QUARRATA 50人の市民と古着Tシャツをつないで、縄綯い NAWAパフォーマンスをおこなった。このパフォーマンスにおいて、イタリア人は陽気にリズムにのって、まるでダンスするように足をあげ、みな笑いが絶えなかったことがわたしの歓びにつながった。

イタリア人の明るいエネルギーに触れた後、エストニアに向かう飛行機から円輪の太陽が見えた。
エストニアのヒーラーが住む小さな島に渡った。ヒーラーはわたしがアースサミット以来続けている
「みんなで縄を綯う縄リンク」の活動に対してあまりにも一身を投じすぎるのはなぜか。
天照大神をどう思うかと問いかけられた。その当時のわたしはそれらの問に返答できなかったままドイツカッセルに向かった。

翌年に招聘されているパラレルドクメンタ国際展で制作予定であったので、縄リンクプロジェクトの下見調査に行った。協力してくれる芸術家カローラルフに古着Tシャツなどのリサイクル工場に同行してもらった。古着は山と積まれて工場には溢れていたことを確認し、縄リンクプロジェクトで制作する規模など決定することが出来た。

エストニアのヒーラーの“問いかけ”をも振り返りもせず帰国。大学の講義のやりくりをしながら、
雲南省少数民族出身のサムコックチャンらと中国雲南省へ旅立った
土埃のなかを牛、山羊、鶏、人間、自転車、車が渾然と同じ一本の裸道を行く。そして少数民族の手仕事に目を奪われ、忘れ得ぬ体験となった。

ドイツでは96年には山積みだった古着Tシャツが破棄処分施設リサイクル施設から消えている。

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1997年もう一つのカッセルドクメンタ

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1997
 国際インサイド展 もう一つのドクメンタ

LinkIcon"縄リンク・イン・カッセル"
 500人のドイツ市民と制作
 Projektgruppe St of fwechsel Kassel
 アシュロットパーク
 カッセル ドイツ
1996年8月~1997年6月~9月
NAWA LINK IN GERMANY ドイツの学生達といっしょに、古着をつないで
直径2m×高 さ8mの太縄を土中に立てる。カッセル市アシュロット公園
 “インサイド”国際美術展・パラレルドクメンタに
インスタレーションワークを制作出品。DAAD基金助成。


matumoto.jpgカールハインツ、マリヨ、松本学、松本智映carola.jpgマリヨ、カローラルフ



Carola&-Yuna-&-Jinn-1.jpgCarola & Yuna & Jinn9/22~23
"縄リンク・イン・カッセル"その後
縄リンクインカッセル ドクメンタリー作品展 
討議会と個展  
クンストバルコン ギャラリー
カッセル ドイツ


国旗と国旗を結んで

1997 7/5~7/19
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彫刻インスタレーション
”アートー平和へ”
アン・スペリー+八木マリヨ
LinkIcon" The Oneness-97""twine in Japan""Twin in America"
法然院・方丈の間
京都

1997
ゴミアート展 
縄リンクイン京都   西陣残糸再利用「生命渦」古着Tシャツ
枯葉によるインスタレーション
京都市ゴミ減量推進会議
立誠小学校 高瀬川
京都

1998年 50才 
宮崎の火山高原地帯、霧島高原町と琵琶湖畔比叡平で暮らす

エストニア共和国 縄ロジイ縄リンク活動
日本国際交流基金

Theresa-Georgen-at-Valtic-s.jpg
Theresa Georgen at valtic sea

Mirainokaseki6.jpg
1997~1998
LinkIconコンクリート彫刻 ”未来の化石”
 津田サイエンスヒルズニュータウン
 シンボルゲート広場 国道沿線
 津田サイエンスヒルズ大阪府住宅供給公社
 枚方市 大阪府
80トンコンクリート使用


1997~1998
 ”NAWAあなたとわたしから”環境彫刻
 神戸TC供給住宅計画 空中広場
 ケイアートプランニング
 プランティック総合計画事務所
 神戸

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LinkIcon島根縄バイタルリンク

島根湖陵町
1998年4月~11月7・8日島
根県湖陵町・こりょうエコ・リンク98 
湖陵町民で大縄柱のモニュメントを立ち上げる。


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1999年51才縄ロジイ論に人文学名誉博士授賞

hakasegou.jpg仁とマリヨ

1999年 51才
アナハイム大学 人文学名誉博士授与


2000年52才 縄の中心は空洞

03821.jpgjyoumonkouen.jpg


1999~2000

LinkIcon環境彫刻 ”縄の時空”
 縄文ロマンパークシンボルモニュメント
 福井県三方町
 福井県

縄文博物館設計者の建築家横内敏人が隣接する公園にモニュメントを制作するよう紹介された。縄文博物館設計図を拝見し、土の中に建築を建てるようなイメージのものだった。わたしは20代に制作した「光のママン」「The Twine」などのように「包まれる。囲まれる。」ことや、同時に縄の中心は空洞であるという概念を形にすることにした。縄文時代と名づけられたように、土器に縄を回転させて文様がつけられたことはなにを意味していたのか。それらを紐解く論文は「照葉樹林文化論の現代的展開」に詳しく書いたので参考にしていただきたい。
三方五湖周辺の土を各地から採取し、その土と発掘され破棄放置されていた縄文樹の根っこを利用した作品に左官職人村上博、八木仁の助けをかり仕上げる事にした。


jinnmikata.jpg八木仁murakamimikata.jpg


jinnmika.jpg



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LinkIcon鳥取縄柱Take off!

1999年4月~8月
米子商工会議初青年部 
鳥取県西部12市町村広域連携を目指し、
みんなでつくる 2万5千枚古着Tシャツで高さ10m直径1.4m 国引きの縄柱を立てる。
縄柱take off


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LinkIcon鹿児島縄バイタルリンク

1999.10.22~1029
鹿児島市立伊敷台小学校6年生209人
2100枚古着木綿Tシャツ、丸太
高さ7m、直径50cm

鹿児島市立伊敷台小学校校庭に何本ものロープ縄を用いて、鹿児島市立伊敷台小学校の先生、生徒たちの人力で、 2100枚古着木綿Tシャツの 縄柱を立ち上げた。6年生209人の感想文が寄せられ、take off 飛び立てと名づけられた。
日本文化デザインフォーラム 鹿児島会議 企画


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2000年52才縄バイタルリンク

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2000年 52才
京都バイタルリンク


2000 12.25
LinkIcon縄バイタルリンク2000京都
12000市民参加コラボレーション
インスタレ−ション、ア−トセレモニー
京都市庁舎 前広場
京都


縄バイタルリンク2000京都を行うにあたって、実行委員会を結成するべく、わたしが実行委員長となり法然院管主の梶田真章に副委員長になっていただいた。梶田ご住職は縄バイタルリンクプロジェクトに京都の未来、京都人の意気込みをかけたいと熱意をもって実行された。このバックアップで神戸出身のわたしは縄リンクの活動を半年かけて京都各地で講演など行いながら人びとの参加を呼びかけ、小縄から大縄までの多くのプロセスを経て、京都市庁舎前広場に1日だけ縄の塔を建立し、火の祭典の許可を得た。このプロジェクトは準備段階から役所をはじめ、閉鎖的地域性、保守的地域性、分断されたあらゆる社会の壁を乗り越えて行く事から始まっていた。  
 (参考文献:縄バイタルリンク2000京都冊子、DVD,他


2000年7月~12月
縄バイタルリンク2000京都
21世紀ー新地軸
 古着Tシャツ約1万枚で高さ11m直径1,2m縄の塔を完成12月25日京都市庁舎前広場に建立、アートセレモニーで点火。
firenawa.jpg日本芸術文化振興会基金助成
炎のセレモニーの意味は20世紀の物質文明社会から精神文明が重視されていく心の時代、新しい価値を創造する軸を生み出すためのセレモニーだ。



2000 4.17~4.27
 八木マリヨ とアンスペリー展
 天野画廊
 大阪

2000 4.17~4.27
 八木マリヨのパブリックアート展
 西本町インテスビルホール 
 竹中工務店大阪設計部 
 大阪

2000 10.31~11.12
 八木マリヨ立体小品展
 ギャラリーa
 京都
 宮崎霧島から拒否され 第2の人生が崩れ比叡平に引き上げる
霧島新燃岳噴火2010年 

2001年 53才 炎のセレモニーの灰の意味 死の生の中に

縄バイタルリンク2000京都の炎のセレモニー12月25日のあと、霧島新燃岳噴火2010年の10年前にあたる2001年の新年、第2の人生をスタートさせる夢の一歩が崩れ去った。地球の鼓動とともに、わたし自身も息づいていきたいと願い、前年に購入していた眼前に宮崎霧島山だけを望む自然豊かな土地で、地を耕しながら『縄ロジイの庭園』を作ることに専念する人生でありたいという夢だった。炎のセレモニーは現代文明の疲弊から脱却宣言のつもりだったが、私自身はまだまだ緩く曖昧な決意だったのだろう。炎のセレモニーでの灰はその10年後の霧島新燃岳噴火による灰を意味していたのかもしれない。霧島から拒否され、憔悴のまま完全に比叡平に引き上げることになった。エストニアヒーラーのわたしへの “問い”が蘇った。それから、 
ジャネット エッケルマン比叡平アトリエに滞在2ヶ月し誘われてバリ島への旅にでかけた。死も生の中にあると知る体験だった。


2001年 53才
中国四川省への旅 西安市副市長から空海が学んだ西安市青龍寺周囲の空地の利用計画で公園設計案の依頼を受けた。西安市青龍寺から敦煌、秦始皇帝陵兵馬俑、ゴビ砂漠を訪ねた。


Midasiteiseibun32.jpgジャネットエッケルマン、夕菜と NYにて
ジャネット エッケルマン比叡平アトリエに滞在バリ島への旅
中国四川省への旅  始皇帝墓  ゴビ砂漠、
ドイツ ライプニッツ コールマインツ跡地計画調査
縄バイタルリンクプロジェクトの波及効果である、市民とともに縄綯いをする行為により、地域民の結束をはかりながら共に、開発計画を地域民とともに作って行く概念が注目された。



04.jpg
左官職人、左官組合理事長村上博とLinkIconジョモニータイル開発。

Midasiteiseibun33.jpgジャックラーセンと夕菜 The One 作品/Long House Reserve, NYMidasiteiseibun34.jpgジャックラーセンとSpiral Locomotion 作品Long House Reserve, NY



2001年9月11日 アメリカテロ ニューヨーク

2001 10.1~10.27
 八木マリヨの環境デザインへの提案
 八木マリヨ個展土と光の仕事展
 ケープランニング, ア−トリンククマイショールーム  東京

2002年 54才
1月仁とドイツ、スペインへ 
2月 スペイン アルハンブラ/バルパライソ/アーティストレジデンス 招聘一ヶ月
絵本構想
3月〜4月体調不良のため、大学病院で検診うけるが問題なしの結果をうけるが、それは誤診であった。

8月モンゴルへ旅 バイカル湖周辺 砂漠へ
日本を発つ京都祇園祭りのころ、大変な疲労感があったが無理を押し、カッセル平行ドクメンタのコミッショナー であり、エジプト人のハムディ エル アタールが専念企画していた芸術によるフエルト産業の復活に協力のためと1988年地軸制作から発想していた地軸構想の実現調査のためにモンゴルへ出かけた。

芸術によるフエルト産業の復活へ、
地軸構想について

ウランバートルで直感で癌だと自覚した


9月夕菜 ニューヨークへ大学進学
モンゴルから帰国後、癌検診を受けるがまたもや異常なしと誤診受ける。

04161.jpg
LinkIcon初音の庭

10月京都市子どもパトナ教育相談センター前庭デザインの相談を教育長であった現市長の門川大作から受けた。
あまりにも前案が伝統ある京都にふさわしくなく、環境問題への配慮も無く、カウンセリング目的の『心の庭』とかけ離れた典型的都市型庭だったからだ。すばらしい京土の風情は寺社仏閣の土塀や茶室などに息づいてきているのに、風土性が取り入れられていなかった。相談だけで、設計施工まで依頼を受けていないのにもかかわらず、環境芸術家としての気持ちが収まらず黙って見過ごすことができなかった。芸術家への設計料はなしでも前案で決まっていた予算と工事期間を守る事を条件に、京都市役所側から拒否されるのを承知で左官職人村上博と大型模型を制作し届けた。

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濾泡性悪性リンパ腫第4ステージ診断される

12月下旬 癌の疑いありと診断され自ら断食に入る 合計21日間

2003年55才 
1月 濾泡性悪性リンパ腫第4ステージ診断された。
経過観察となる

京都府文化功労賞授与される。

3月京都市子どもパトナ教育相談センター LinkIcon初音の庭 完成

6月〜9月 
アメリカの母と呼ぶようになっていたミルドレッドコンスタンチンの誕生日祝いに駆けつける事を目標に、冬から体調を整えることに専心し、ニューヨークへでかけることができた。ケネディ空港に着いたときはふらふらだった。その後、静養のためカナダの友人の別荘へ行く。 ある月夜、オンタリオ湖の北にある小さな湖畔で銀河宇宙の渚に浮遊するような不可思議な離脱体験をした。なんという寂寥たる孤独、究極の孤独な空間体験だった。その翌朝、森の鹿や落ち葉、木々すべてが自然と呼応する祝福に思えた。生命エネルギーが蘇った。

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2004年56才 身一つに、シンプルに

tamano.JPG
2004年56才
2月
岡山県 LinkIcon玉野みなと芸術フェスティバルにて
八木マリヨの縄バイタルリンクプロジェクト
”Uno! Andiamo avanti”
主催 玉野みなと芸術フェスタ実行委員会



Midasiteiseibun35.jpg比叡平アトリエ
 潮騒が聞こえる砂浜に立地することが気に入り
比叡平から神戸市塩屋へ移転。


Midasiteiseibun36.jpg神戸市塩屋の住まいから 塩屋海

わたしはこの頃体力がなく、玉野のバイタルリンクプロジェクトはほとんど玉野の人たちの手で行われた。炎の祭典を行うかどうか、反対派と賛成派に別れた。わたしは討論がアートプロジェクトのプロセスにとって大切な事柄であるからと主張し、討論会に立ち会ったが、途中、休憩室で休まねばならなかったほどの体力だった。

出来うる限り社会活動を止めようと、身一つになり、シンプルに生きるために比叡平のアトリエから
神戸市街地から遠くない神戸市塩屋へ移転。
窓からは海しか見えず、波の音だけ聞こえるところが気に入った。
小さな個展と絵など平面の仕事だけできればいいと広かったアトリエ住宅から1/5になった小さなスペースへの移転。トラック何台もどれだけのモノを捨てた事か。




Midasiteiseibun37.jpg夕菜パーソンズ大学卒業家族そろってニューヨークアパートにて

2004年
アートテキスタイルローザンヌ1960~1990/ロスピスサンロック美術館フランス/トムズポーリ財団

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2005年汝我NAHWA発表

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2005年 57才
 汝我LinkIconNAHWA lighting sculpture発表。株式会社オゼキより製造販売となる。


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福音館書店絵本出版
ちいさなかがくのともシリーズ“LinkIconくるくるくるん” 


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2005 3月19日~27日 
LinkIcon個展八木マリヨ『縄と土のしごと』
アートスペース感
2005 4月9日~24日  
八木マリヨ個展「縄ー汝我―生命の刻印」
江寿画廊



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7月フランスノルマンディにて、  
ジャンモレとコラボレーションインスタレーションのため渡仏。



10月 父八木康吉91才死去

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2006年58才 癌を友に生きる

2006年58才

4月仁結婚、イギリスへ大学院進学

1002.jpg7月福音館書店絵本“LinkIconおひさまはいつも”の絵を描く日々が半年つづいた後ようやく完成した。7月正常NK細胞の働きが2%しか働いていなかった。第4期の濾泡性悪性リンパ腫がかなり進み、腸閉塞の可能性大となるほど大きな癌が所狭しと、腸管膜に数えきれないほどになっていた。標準治療として抗がん剤治療薦められるが、抗がん剤は拒否し、分子標的薬のみ6週間受けることにした。この方法はあまり例を見ない選択らしいが医師はわたしの意志を受けいれてくださった。8月別の病院で免疫療法も行うことにした。癌と闘わず受け止めながら共に生きる方針を貫くことに決めたのだ。

  癌細胞も私が作った私自身の60兆個の細胞の内である。癌細胞もわたしの肉体そのものであり、私自身なのだ。わたしは自身の癌細胞を「悪」とし叩きのめし闘うという現代医療の矛盾を感じる。
自分で作った悪と、正といわれる自分と、互いに戦争するとはなんと滑稽なことか。矛盾のようだが、癌細胞はある意味、やむにやまれず癌化し。癌のおかげでわたしの生命を保持しているとさえ感じる。癌という悪に教えられ、わたしの人生が広がった。またもや3回目の人生を歩ませてもらっているようにも思う。



2007年59才 半年間かけてヨーロッパに滞在

3月正常NK細胞の働きが30%も健常者の倍ほど働き始めていたことに、医師は驚かれた。しかし、わずかに小さくなった癌は、相変わらず腹部中心の全身に鎮座しているままだ。
4〜9月の半年間かけてヨーロッパに滞在を目標計画し過ごしてきたわたしは ポルトガルでパブリックアートのプロポーザルをしないかとベルギー人のアニュータコレツキーから誘われたこと、延期していた、イタリアボリアスコ/アーティストレジデンスを合わせて、スコットランドにあるフィンドホーンに滞在することを中心に計画していた。
フィンドホーンには1992年ブラジル、オマメプロジェクトをディレクトしていたメイイーストがコーチングし、国連開発計画に働きかけ、環境問題に取り組み続けていたのは偶然であり必然の再会であった。
ポルトガル、スペイン、イタリア、フランス、ドイツ、スエーデン、イギリス、スコットランド、スエーデンを巡った。夕菜とポルトガルで合流し、スペイン、フランスを1ヶ月巡り、ロンドンにいる仁とベアを訪ねた。
そして、イタリアボリアスコ/アーティストレジデンスに招聘 一ヶ月滞在
オイルパステル画を制作 リビエラでの生活はわたしに色彩への欲望をかりたたせてくれた。帰国後、その絵の個展を京都のギャラリーaで開いた。

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G2.jpgG3.jpg
オイルパステル画イタリアボリアスコ/アーティストレジデンス2007年


夕菜とポルトガル、スペイン、フランスを1ヶ月巡る。
イタリアボリアスコ/アーティストレジデンスに招聘 一ヶ月滞在
オイルパステル画を制作
京都 ギャラリーa絵画個展


2008年60才 29才、28才
福音館書店絵本
ちいさなかがくのともシリーズ おひさまはいつも絵本出版

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2008年60才 時の化身クロノス/千里地層形成物語続編完成

chronos700blu.jpgLinkIcon千里地層形成物語「地球縄ひろば」続編 クロノス/時の化身
『地球縄ひろば』景観芸術作品を含む千里中央駅開発地域は
大阪府の財政難から民間に移譲され、リニュアル設計コンペにより
選ばれた新たなひろばの設計案は20年前以上に戻ったかのように、
広場に時計塔モニュメントをという設計だった。しかし、竹中工務店設計者と『地球縄ひろば』を管理していた元財団法人千里センターの担当者が市民に愛されてきた『地球縄ひろば』の記憶を残すために、時計塔案からわたしに制作を依頼するために奔走された経緯がある。
わたしは千里地層形成物語「地球縄ひろば」が撤去される時、作品一部の破片など、取り置きすることを「地球縄ひろば」の設計管理に携わった松村学に依頼していた。その破片一部も利用し、千里地層形成物語続編として地球の営みの変化を伝える クロノス/時の化身を制作したのだ。
環境芸術 / 彫刻家 八木マリヨ2008年 2月 竣工



P1160056.jpg左官職人 村上 博 クロノス現場制作中 2008年chronos2.jpgマリヨ  クロノス現場制作中 2008年


chronos.jpg



福音館書店絵本
ちいさなかがくのともシリーズ おひさまはいつも絵本出版

■ニューヨークアパートみな引き上げる。

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Midasiteiseibun39.jpgprospect hills community nawalink ブランダイス大学ワークショップ2008年


ジャネットエケルマンの推薦からハーバードローブフェローシップの面接受ける。
ボストン、ブランダイス大学にて講義とワークショップをおこなった。

フランス/アルルステックアーティストレジデンス 招聘

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2009年61才

フランス/アルルステックアーティストレジデンス 招聘 
八木夕菜もフォトアーティストとして同時に招聘され
共に一ヶ月滞在し、夕菜の協力もあり、
カタルニア地方を堪能した作品が生まれた。
夕菜とフランスで過ごした生活が
功を称し癌は自然退縮傾向になりはじめた。
制作タイトル: 縄 LinkIconそれはアルルステックのルーツ

縄 なわ 汝我 あなたとわたし
八木マリヨによる縄彫刻インスタレーション
場所:アルルステック フランス  2009
プロジェクト: 幸福を綯う縄バイタルリンク
あなたとわたしのつながり



京都で温熱療法を開始。

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2010年
個展「LinkIconThe earth & earth 地球にすれば・・」ギャラリー島田/神戸

Gshimada.jpgMariyokathysuzuki.jpgジャーナリスト・Kathy Arlyn Sokolとその友人と /汝我の塔男木島完成時2010年 Kathy Arlyn Sokolと鈴木郷史と/個展オープニング/ギャラリー島田2010年



MonumentChronos.pdfANAの記事 Kathy Arlyn Sokol


2010年62才 縄の塔 全て人力で建立

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5〜7月瀬戸内芸術祭男木島 縄の塔
高松からフェリーで男木島へ通う。
小学生川田一稀君と出会う。
LinkIcon瀬戸内芸術祭男木島 縄の塔



8〜12月
ポーラショーケース銀座 造形インスタレーション作成
真夏40度を超える久御山の工房で81才の村上博といっしょに
3mほどの高さの足場に登って制作作業を重ねた。大作だった。

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ポーラショーケース銀座 造形インスタレーション


Midasiteiseibun41.jpg82才左官職人村上博マイマイの遊離制作中P1230992.jpg



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10月〜12月ギャラリーエークワッドでの個展のため新作『マイマイの遊離』制作。砂袋紙のリサイクル素材や柿渋などの素材も利用して、縄を形成する外形を作る新たな手法を見いだし、またしても自身の身体より遥かに大きく重い大作に挑戦した。縄文ロマンパークに制作した「縄の時空」のように、縄の空洞をつくることだった。縄の空洞のなかは腸の絨毛のように世界各国から集めた新聞を裂き、一枚一枚を縄内部のラセンに沿って貼付けた。縄の空洞に一人入っての作業は大変ではあるが、同時代同時期の世界各国の新聞記事にも目を通しながら、静かなひとりごちる大事な時間であった。



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御嶽山木曽町三岳支所と石工組合による石産業振興に3年計画で関わる



2011年63才 縄の森をくぐりぬけると、、

2011年 63才

_DSC8527.jpg Mori-no-Nawa,-Rope-Forest.jpg
1/14〜3/10
LinkIcon八木マリヨ展 縄の森をくぐいぬけると、、、
竹中 ギャラリーエークワッド


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八木マリヨ展 縄の森をくぐりぬけると、、、
 竹中工務店本店/ギャラリーエークワッド
八木夕菜、八木仁とも制作協力。
癌と共生していることを公にし、マイマイの遊離作品に癌細胞画像を取り入れた映像を作成した。


3.11 東北大震災津波

4月 東北仙台市被災地を訪れ、花を手向ける。


Midasiteiseibun47.jpg船坂自然塾ワークショップ2011Funasaka6.jpgMidasiteiseibun49.jpg

7月 西宮船坂ビエンナーレに向けて

こども自然塾と葛つる縄綯い、野焼きで葛縄文土オブジェ制作

8月と10月東北各地を旅する

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2012年64才 地球惑星にすれば、、、

3.11 東北大震災津波、フクシマ 問題を受けて
“The Planet Earth & earth 地球惑星にすれば、、、”を構想し、
大作を制作。
雪降る2月から5月にかけて、久御山の工房で83才の村上博、八木仁の協力で「地球惑星のお臍」「地球惑星の皮膚」を制作した。
「マイマイの遊離」、「縄の時空」につづく縄の中空=祠(ほこら)作品であり、地球惑星の懐、内部に抱かれる「地球惑星のお臍」は、5つに分割しなければ、トラックで運べないという、またさらに大きな作品となった。わたしは全身を使って制作作業しなければできないほどの大きな作品を作る行為に我ながら呆れていた。

「地球惑星のお臍」2012年久御山の工房で制作中

IMG_1009.jpgハンマーを手に寝転ばなければできない作業するマリヨRIMG0043.jpg下地づくりする仁


RIMG0071.jpgRIMG0011.jpg「地球惑星のお臍」2012年久御山の工房で仁、制作休憩中


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IMG_1392.jpg久御山の工房で制作中「「地球惑星の皮膚」2012年





癌との共生も10年となった。日本の湿気が身体にきついので
7〜8月ヨーロッパ1ヶ月半滞在し、アンティーブのロジャーカムスを訪ね、今年13回ドクメンタが開かれているカッセルにあるカローラルフのアトリエで、コンセプトドローイングを制作する。
RogerCamus.jpgRoger Camus at Antibes 2012年

リオ+20サミットが開かれた。リオアースサミット以来20年間つづけてきた縄リンクプロジェクトの一つでもある、瀬戸内芸術祭男木島 縄の塔も2年を経て、9月15日縄の塔が燃える。男木島で炎祭典。

11月ポーラミュージアムアネックス八木マリヨ個展
“The Planet Earth & earth 地球惑星にすれば、、、”


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御嶽山木曽町三岳支所と石工組合と制作した石立体作品を
木曽町三岳に設置。御嶽の里の振興に関わる。

LinkIconポーラミュージアムアネックス個展

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